2012年御翼12月号その4

外でいい顔、家で無愛想はいけません

   

 日本在住65年で96歳のジャンヌ・ボッセ・シスター(ノートルダム修道会)は、「外でいい顔、家で無愛想はいけません」と著書に記している。

 家族がひとつにまとまっていて仲がよければ、これほど確かなことはありません。ですが、誰にとっても、じつは家庭での愛の実践こそ難しいのではないでしょうか。なぜかというと、他人へは出さない「わがまま」が家庭では出やすいからです。ひどく疲れていたり、仕事場や学校で何かいやなことがあったりすると、どうしても家ではニコニコできないでしょう。むしろ、家だから不機嫌でいてもいいと思ってしまいがちです。
 でも、できるだけ家でも、いいえ、家だからこそ自分のわがままや不満を出さないよう努めましょう。出してしまっても長く引きずらないようにしましょう。家庭が愛に溢れているなら、その雰囲気はやがて外へも伝わります。どんなに疲れきって家に帰っても、家族がにっこり穏やかに接してくれれば、いつの間にか疲れはなくなっているでしょう?元気になって、翌日機嫌よく会社や学校に出かけていけるのですから、もう仕事場の人や学校のお友達に、不快な気持ちが伝わってしまうこともないわけです。家庭での過ごし方が、世の中の平和にも大きく関わってくるといってもよいくらいなのです。「コミュニケーションなしではほんとうの人間になれない」と考えていますので、たとえひとり暮らしでも、ときどき家族と会う時間を作ったり、電話で話したりすることで、家族とのつながりを持つようにしたほうがよいと思います。たしかに、たとえ家族間であってもコミュニケーションをはかるのは難しいです。でも、家族間でできないことが、よそに行ってできるでしょうか?
 私は、カナダの田舎で父母と6人きょうだいの8人家族で子どものころを過ごしました。最近は、日本と同じようにカナダでも3人きょうだいさえ珍しいほど少子化が進んでいるらしいのですが、私にとって、大家族で過ごした思い出には楽しいことがいっぱいでした。物質的には決して今のように豊かではなかったけれど、家族の会話がたくさんあり、姉や兄や妹たちと遊んだり歌ったり、父母の大きな愛にいつも包まれていました。
 東日本大震災の後、「人々が家庭のつながりの大切さを知った」と新聞記事にも書かれていましたね。人は家庭で家族とつながり、そこからそれぞれが社会とつながっていくわけですから、まず家庭があたたかな気持ちで満たされているなら、きっと社会にもそのあたたかさが伝播していくでしょう。
 ひとりひとりが愛の大使になったつもりでいましょう。少しオーバーですけれど、これくらいの気持ちで、さっそく今日から家族にもあたたかな気持ちで接するようにしましょう。外でいい顔をして、家で無愛想。これはやめたいですね。
ジャンヌ・ボッセ『しあわせは微笑みが連れてくるの』(メディアファクトリー)より

お茶の水クリスチャン・センターで、星野富弘さんの個展が11月2日から開かれている。それに合わせて、詩画集『いのちより大切なもの』が「いのちのことば社」より発行された。今回の出版でこれまでと異なるのは、キリストの救いについて、より明確に記されていることである。これまで富弘さんは、その理由は分からないが、作品を発表するにあたり、キリスト教を前面に押し出すことはしてこなかった。しかし、昨年の東日本大震災を体験し、人々の魂の救いにつながるキリストのことを、これまで以上に発表したいと思うようになったという。最新の詩画集には、入院中に聖書と三浦綾子さんの作品『塩狩峠』を読んでキリストと出会った経緯がよくまとまって記されている。今回の個展においても、順路の最後にある5点は、罪の赦しについて、あるいはキリストの名が記されているものとなっている。今回の個展や出版で、富弘さんは「僕は冒険しているんです」と言っているという。
富弘さんが外の人と信仰を分かち合えるのは、家庭内においてかつて母から、今はクリスチャンの夫人を通して神の愛を体験しているからである。24歳でけがをして入院していた時、膀胱に管を入れて尿を排泄していた。この管がよく詰まってしまい、看護師を呼んでもなかなか来てくれない。体が麻痺している富弘さんは、尿意を感じない。しかし、管が詰まると知らない間に膀胱が膨れ、体中に汗が噴き出て、心臓の動悸は激しくなり、息が上がり、大変な状況になってしまう。苦しがる姿を見かねて、母親は尿道につながっている管を口にくわえ、息を吹き込んだり吸ったりして管の詰まりを取ってくれた。母は時々それを してくれたという。母は、富弘さんが入院し、人口呼吸器につながれ、高熱にうなされていた時、 「わが身を切り刻んででも生きる力を富弘の体の中に送り込みたい」と思ったという。当時は母親もクリスチャンではなかったが、本能的にこういう気持ちを持っている。「私は、それほどの愛に応える術をもっておらず、何も言うことができませんでした」と富弘さんは記している。
 神様がたった一度だけ
 この腕を動かしてくださるとしたら
 母の肩をたたかせてもらおう
 風に揺れるぺんぺん草の
 実を見ていたら
 そんな日が本当に
 来るような気がした

 この願いは、天国において必ず実現することを私たちは知っている。

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